私は結局のところどんな人間関係を望んでいるのだろう。
孤独を嘆き、人と係わり合いたいと思っている割には、周りを異常なほどに警戒している。
思えば、私は「何でも言い合う関係」を人と築くことをしてこなかったように思う。どんなに仲のよい友人であっても、どんなに信じ切って最大の理解者と思えたはずの相手であっても。
どちらが因でどちらが果かわからないけれども、本音(お互いに対することで)を言うことも言われることも恐くてなかなかできない。マイナスなこと、厳しいことを言われたら、嫌われた、自分を否定されたと思われて激しく沈む。この性格がめちゃめちゃ性質が悪いといま思う。「注意される=否定」ではないということが前提として自分の中にあればいい話なのだが、どうもそうは思えないのだ、今も。
直接言われるまでに至らなくても、「ちょっとでも粗相したらすぐ嫌われて、相手との関係が終わってしまう」という意識がどこかにあって、日々怯えている現状。相手の反応を予想するときは、大抵最悪の一歩手前の事態が頭から離れなくなる場合が多い。
たとえ本当に衝突があったとしても、雨降って地固まる、いい結末になることもあるし、決して不可逆的なものではないということは、頭ではもうわかっている。喧嘩して真剣にどうしようと悩みながらも結局は仲直りしたことも、粗相した直後に絶対嫌われたと思って怖がってもそんな懸念を吹っ飛ばすような反応をされたことも、経験しているはず。
それなのに。
なかなか人を誘えない、感想や意見をなかなか言えない(反論を恐れ)、イベントを主催できない、人前で話すと頭が真っ白になる、断れない、といった性格と何かしら関係がある気がする。

「嫌われたくない」という気持ちが底にあることはほぼ確か。でも嫌われたくないと思いながらとっている行動のせいで嫌われているという矛盾がいま実際に起こっている。変な話だ。

進入禁止だって あらゆるもの拒絶して
追い払ったのは僕だから
誰も迎えに来ない ちゃんとわかってるって
だけどもう少し待ってたい
(Mr.Children「未来」より)

これがいまの自分だろう。ついでに言うなら続きの

生きてる理由なんてない
だけど死にたくもない
そうして今日をやり過ごしてる

も当たっている。この歌の2番までがいまの自分そのものに思えるが、その先の「僕」にはなれずにいる。

ちょっと話がずれたが、私はどうしたいんだろう。